2014年8月26日火曜日

短時間だけど黙想指導を受けてきた

四谷の教会はやたらに大きくなりすぎてしまったのだ。最新の教会報で主任司祭の巻頭の記事を読みながら申し訳ないがそう思った。何事も上り坂のときもあれば下り坂のときもあるのだ。日本の国全体が人口膨張のときを過ぎて、高齢社会、果ては多死と人口減少のときを迎え始めた。これは仕方のないことで一時的にはどうしてもこういう時期を通り過ぎることになるのだ。ただ、これもまたいつかは必ず上り坂に転じる時がくるのだと思う。ただ、日本のカトリック教会の現実が今後どうなっていくのかは非常に問題だろう。 その辺を考えるとき、ちょっとこれは、と思うものがある。今年鎌倉の黙想の家から一人の若手司祭が四谷の教会に異動してきた。この方はこれまで主に黙想指導等を中心に働いてこられたと聞いている。人気も高く、講座の集客率、じゃない出席率は相当なものだ。まあ、そうは言ってもただの普通の人間であることを忘れて期待しすぎると、四谷では往々にして落とし穴に落ちて失敗するケースも見ているから、やたらほめすぎるとろくなことにならないとも思っているんだが、それでもなかなかなものだ。 若いけれど祈りの指導者(聖イグナチオの霊性に基づいた)としてはかなり信頼の置ける人物だろう。というわけで今日はこのところの蕁麻疹の痒みも我慢して、祈りの講座に出てきた。 やっぱり、さすが餅は餅屋で、こういう話はたびたび繰り返し聴かないと、普段の生活では忘れてしまいがちな祈りの方法の基本をうかがうことができて、非常によかった。その昔の四谷には長束に修練院があったころ、今は亡きライフ神父様が修練長の頃、副修練長としてその名をはせた司祭が助任だったから、祈りについては本当にたくさんのことを学ぶことができたのが、この十数年はそれなりの人材がいなくなったせいか、どうも、いわゆる霊的生活を支えるだけのものがなかなか得られない状況だ。少なくとも今日のような話でもいいから心を祈りに向けるための話しを聞きたいものだ。 たぶん、本当に信仰を生きたものに変える祈りに人の心が向かい始めたら、カトリック教会が変わるのだと思う。人間の集まりの現実は現実だし、どんなにすばらしい方でもやっぱり人間の弱さで失敗だってしでかす現実もすべて網羅してそれでも、イエス様の教え、イエス様の教会はすばらしいのだと声を大にして言えるのだと思う。それはこの世の現実だけを見ているのではだめだ。現実を超えた理想に目を向ける力が必要なのだ。霜山徳爾先生のおっしゃていた複眼の思想を生きることが必要なのだと思う。 今日の講座では、そんなことを考えさせられて帰ってきた。来週はすでに9月、考えただけで終わらせずに実行していけるように願うばかりだ。

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