2014年2月2日日曜日

メインブログからの転載

カトリック本所教会

 
今日は、日本二十六聖人殉教者祭で、初めて本所教会に出かけてきた。 前から一度行ってみたいとは思っていたのだが、知らないところに一人で行くのはどうも気が引けて、ついついなかなか行けずにいたのだが、聖書の集いの幸田司教様が当日の司式と言うことで、それなら何人か知人もいるだろうと思い出かけてみた。するとやはり顔なじみの方もいて、帰りは一緒に帰ってきた。 記念ミサや司教様の講話もよかったし、聖体賛美式のときの主任司祭の説教がまたとてもよかった。話し方はそれほど上手ではなくても、すごく熱意のこもった、心に響く説教と感じた。出かけるだけの甲斐があったと、帰りに知人と話した。 浅草教会には以前江戸の殉教者の遺蹟巡礼で行った事があったが、本所は今日初めてで、中央線沿線とその周辺とは全然違う雰囲気の土地の様子だが、教会の中に入るとやっぱりカトリック教会で、聖堂のあっちにもこっちにもマリア様の御絵や御像があって、なんともほっとする感じだった。あ、そういえば、聖フランシスコ・ザビエルの御像も

あった。  
        上は教会の周りの塀の途中に安置されていた聖母子像 教会の庭から ザビエル像 聖堂内部 祭壇 脇壁上のマリア様 聖水盤のマリア様 以上こんな感じで実物は素敵な聖堂だった。
 
 
   

今日は本所教会に行く予定―メモ

 
昨日は咳が止まらず、のども痛いで聖歌隊も休み、何処にも出かけずさっさと休んだので今朝は何とか、落ち着いている。咳止めは必要そうだがこれなら出かけても大丈夫そうだ。とにかく行ったことのない場所だから早めに出かけることにする。錦糸町は妹と最後にスカイツリーに行って以来だ。スカイツリーを見ると悲しくなってしまいそうだ。

朝起きたとき、以前、鎌倉のレデンプトリスチン修道院で当時の院長様から聞いたことを思い出していた。観想生活と観想修道会の生活はイコールではありませんというのだ。確かにそうだと思う。

観想生活自体は世間にいても可能なのだ。ただし普通に暮らしていてはやっぱり無理だ。この世に流されてしまう。どちらかというとカトリックの普通の信者の生活ではだめだ。ミサや聖歌隊は良いとして、生活の質は昔のプロテスタントに見習わないと駄目だ(今は向こうも世俗的になってきているが)。

助けになるのは聖書と聖歌とミサと、それから先祖代々おなじみの法華経の思想、宮沢賢治の言葉あたりかもしれないと感じる。むかしの子供の讃美歌ではないけれど、麗しき朝も静かなる夜も食べ物着物も下さる神様に向かって、わがままを捨てて、人々を愛し、この日の勤めを為さしめ給えや、の精神でいくのが基本だろう。

どっちにしても世間の価値観に合わせていては不可能な話なのだと思う。

 

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