2014年2月22日土曜日

メインブログからの転載

ああ、そうだったんだ

 

こんばんは~、マリーで~す。

うちのおばはんのほうは、このところどうも調子がよくなくて全然咳が止まらないから聖歌隊もお休みしちゃってるのよ。毎年冬になるとおんなじ症状が出るんだから、季節が過ぎればよくなるけど、寒い間はどうしようもないのよね。

そんでもお家にいて他にすることもないから、あの人には珍しく、前から気になっていたことをあれこれ調べなおしたり、ちゃんと勉強してたみたいよ。昔々、もう何十年も前だけど、あの人の周りに普通あるわけのないようなへんてこなことがいくつも続いて起こってたりした時期があったの。それからあの人、ユング心理学を勉強したりしてたんだわ。でもそれ自体はあの人が探していたものじゃなかったから、ただ知識として勉強したわけよね。

あの人が探していたのは自分の心の中にあるものと重なるものはどこにあるのかってことだったから、カトリック教会や、キリスト教関係の昔のえらい人たちが残した記録で日本語になっているものを片っ端から読んで、ノーリッジのジュリアンていう方のことにたどり着いたりしてたんだわ。

あの人がカトリック教会で一番最初にかかわりあった修道会はイエスの小さい姉妹の友愛会って言う会だったのよ。この会はプロテスタントからの改宗信者だったうちのおばはんには違和感のない信仰生活グループだったの。うちのおばはんが昔所属していたプロテスタントの教会は聖書バプテストっていってすごく固い厳格なファンダメンタルなキリスト教の教会だったから、一般の信者の生活自体が、小さい姉妹のシスター達の生活と似てたのよね。

だけど、あの教派の考え方にも、小さい姉妹のシスター達の考え方の中にも、あの人の心の中にあるような何かが見つからなかったから、周りが何といってもそれが自分の探している場、探しているものと思えなかったのよ。だから自分から希望する気にはなれなかったの。

そうこうしているうちにへんてこなことばかり続いて、あの人はマスコミに追い回されたり、変な連中に利用されたり散々なことになった挙句、仕方なく生活保護を受けて暮らす羽目になったのよ。

それでも、カトリック教会の中のどこかに自分の心の中にあるものと一致するものがあるはずだって思ってあちこちの修道会を調べては訪ねていたわけよ。それである時、レデンプトリスチンの創立者の尊者マリア・セレスタ・クロスタローザっていう方のことを読んで、あれっ、これってユング心理学のほうで同じようなことを言っていなかったかしら。大我と小我とか真の自己とちっぽけな自我のはなしにも通じてくるのではないの。クロスタローザさんは真実をつかんだのではないのかしら。私がさがしているのもそれだったのだけど・・・とか気がついて、鎌倉のレデンプトリスチン修道院にその当時の院長さまに面会をお願いしたのよ。

だからあの人、時々鎌倉のレデンプトリスチンの当時の院長様の話、書いてるじゃない。立派な方だったわよ。ただ、実際的過ぎたかもしれないけどさ。でも、あの方にあったおかげで、うちのおばはんの観想修道会に対する見方が大きく変わったの。観想生活と観想修道会の生活はイコールではないし、観想者と観想修道者もイコールではないってわかったのよね。観想会の院長様自身がそうおっしゃったんだもの。

その前にも深大寺のカルメル会の院長様と面会した日の夜、夢で見た場面が気になっていたのもこれで夢の意味に納得したのよ。それ以来、別に観想修道会に入っても入らなくても祈りの生活自体にはあまり関係ないんだって思ったみたいよ。

それはとにかく、レデンプトリスチンのことは院長様から連絡がなかったから断られたんだってわかって、情けないし、もうあの会のことは考えないもんって、心の中から追い出していたの。

あれから何十年もたったわけだけど、今頃になって、自分の心の中にあるものを見直したら、またレデンプトリスチンの創立者のビジョンを思い出したわけよ。これってさ、修道院の外にいて普通の生活をしていても可能なビジョンじゃないかって感じるのよねえ。

ただし、浮世の欲得づくと道連れでは無理よ。やっぱり捨てなくちゃいけないものもあるのよ。そこでまた思い出したのが、日本人の古来からの宗教性、信仰心のことなのね。あのさあ、住友正友という住友の家祖の方が残した家訓じゃないけど、心の中の大我と呼ぶか、真の自己と呼ぶか、キリスト教の聖霊と呼ぶかはとにかく、人間を超えた大きなお方に出会うには、きれいな心、正直、清浄、慈悲といったものは欠かせないのじゃないかしら。な~んちゃってね。

とにかくそんなことを今日はあの人、ちょっこし考えてたんだわさ。ほんでもって一日終わり。まだまだ先は長そうよ。ま、そんなことよ。ほんじゃまたね。

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