2013年5月22日水曜日

過去ブログの再掲載 つづき

2012.10.15
アビラの聖テレジア
  
こんばんは~、マリーで~す。

今日は陽気も暖かくて、動き回ると汗ばむくらいだったから、うちのおばはんなんかは足腰の痛みも軽くなってだいぶ調子がよかったみたいよ。ほんでもって、あの人、四ツ谷の昼ミサに行ったんだけど、今日はカルメル会のアビラの聖テレジアの祝日だったから、ミサのお説教も大聖テレジアの祈りのこととか、念祷の話だったの。

大聖テレジアが自分の祈りの本にいつも挟んでいた祈りの言葉って、うちのおばはんの好きな、今も部屋が狭いから冷蔵庫の横の壁に貼ってある祈りの言葉だったの。現代語の訳とちょっと言葉が違うけど、おうちに貼ってあるのはこんなのよ。

  
  何ものにも心乱されず  何をも怖れるな
  すべては過ぎ去る  神のみ変わらず
  耐え忍ぶとき  すべてをかちえる
  神に生きる人には  欠けるものはなし
  神のみにて足りる

うちのおばはんには、大聖テレジアのたくさんの著作物はどうも肌に合わなくて、ちゃんと読めたのは完徳の道と創立記で、後は自伝がなんとかかんとか、まだ十字架の聖ヨハネの言ってることのほうがピンと来る気がするんだって。だけど、完徳の道は、これは本物だっていうのよねえ。何が基準なんだかあたしにはわからないんだわさ。

たぶんどうもあの人には異性に対する恋にも似た思いだの、愛だの、友情だのって感覚がよくわかんないのよ。純日本人なんだわさ。神様への思いも恋心に似たものより、絶対者なるお方への帰依の心、子供が親を慕うような思いでしか捕らえられないのね。しょうがないじゃない、生まれ育った文化が違うんだもん。

 
それよりも大聖テレジアが大切にした「念祷」についてだったらかなりよくわかるような気がしてるみたいよ。完徳の道に出会う前に、プロテスタントの頃、カルメル会の人とは知らずに、CLC出版ていうプロテスタントのほうの出版社で出ていた、ラウレンシオ修士の「神の現存の体験」ていう本を読んでいたんだけど、祈りのことではすごく役に立つ本だったの。そのころは念祷なんて言葉も知らなかったんだけどね。

大体、プロテスタントの教会で祈りっていったら、みんなであつまって声に出しての嘆願の祈りが主で、沈黙の祈りとか、神様との個人的な語り合いのことはあまり教わらなかったのよ。ただ、あのひとのおうち、お父さんのお父さんに当たる人が実はお坊さんだったとかで、お父さん自体も意外と宗教的な人だったから、あの人も小さいときから、人間より大きな何者かが存在しているって感覚は親から伝えられていたのね。でもって、そのお方はいつもそばにいて、声に出さなくてもちゃんと自分の心を知っているんだって思っていたらしいのね。それで、声に出さない祈りっていわれてすぐにどういうことかわかったの。

だから、お祈りする時、大聖テレジアが台所仕事をしながらでも祈ることはできると言った意味もすぐわかったの。マルタとマリアのうち、マリアはイエスの傍らにいてイエスの言葉を聴く存在だっていうけれど、マルタだって家事や雑用で、イエスのそばにいつもいられなくても、心がいつもイエスに向いていたら、仕事をしながらでもイエスの言葉に耳を傾けることも、イエスと語り合うこともできるんじゃないの。イエスに心が向いていないと雑音しかきこえないけどね。

それはとにかくさ、ラウレンシオ修士の話に戻るけど、何十年もたってから上野毛教会に行ったら、中川神父様の講座でこの方の話が出てきたの。カルメル会の祈りって、なんとなく、普通の生活とかけ離れた生き方をしないと体得できないようなイメージがあるけど、そうじゃないのよね。ラウレンシオ修士(ブラザー・ローレンス)の祈りや生き方は普通の生活の中でも十分可能なのよね。

あの人、今日はそんなことを思い出して、大聖テレジアの会はすごいなあ、大聖テレジアがカルメル会のためにしたたくさんの仕事はやっぱりすごいなあって、あらためて感心してたの。それで明日、上野毛の講座に行くのを怠けたりしたらこれはちょっと情けないわよね。あしたはあの人をあたしの目覚まし時計機能の最大の音でたたき起こすつもりよ。

そんなわけできょうはここまでよ。ほんじゃまたね。







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