2013年5月15日水曜日

物置代わりにちょっとこれも置いておきます(2)

話の続きよ   2011.2.23
  

(続き)
さて、お話の続きよ。キリスト教の三位一体の“聖霊”なんだけど、うちのおばはんも実は長い間全然わからなかったの。ただねえ、後から振り返るといろいろな道しるべがいくつもあったのね。

あの人のお父さんと言う人は普段は面白いことばかり言って人を笑わせているんだけど、自分の子供に向かって時々すごく難しいことを言ってたの。大体毎年、元日と言うと、家族が揃っておめでとうございますで始めるでしょう。だけど、あの人の記憶では毎年お正月というと、「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」っていうの、一休禅師だったかしらこれを一度は聞かせられるのよね。それとか、真面目くさって、お前わかるか「闇の夜に鳴かぬ鴉の声聞けば、生まれぬさきの父母ぞ恋しき」というんだなとかって、ちっちゃい子がわかるわけもないような難しいことを教え込むから、うちのおばはんも意味もわからないまま覚えこんでいたのよ。

それでねえ、キリスト教の教会に通うようになったとき、その頃はプロテスタントの教会に行ってたんだけど、あるとき、礼拝の中ですべての造られたものよ、神を讃えよというような意味の賛美歌を聞いて、あっと思ったのよ。そうか、闇の夜に鳴かぬ鴉の声聞けばっていうのは、自分はこの世に生まれる前どこにもいなかったんだ、空気だったんだ、無だったんだってわかったの。自分も造られたものなんだってわかったのよ。でも、何年かたってカトリックに改宗してから、長年のお父さんから教えられてきたことの話抜きにこの話をしたら、神父様にあなたは自分を実際以上に見せようとしているとかって言われてチョンよ。全然信用されなくて誤解ばっかりされちゃったの。

あの人の母方のお祖父さんはあの人が小学校1年の時に亡くなったのよ。それがあの人の出会った生まれて初めての死というものだったわけ。うちのおばはんて子供の時から理屈っぽくて、深く考える子だったから、人間が誰でも必ずいつか死ぬのなら、大事なお父さん、お母さんも自分もいつかは死んでこの世にいなくなるって気がついたのねえ。それで終わりの無いものが欲しい。なくならないものが欲しいって思い始めて「永遠」なんてものを考えるようになったのよ。お金やなくなる物なんかじゃなくて、終わりの無いものが欲しいって思ったのよ。もともとが小さいときから深く考える人だったってことは言えるんじゃないかな。

とにかくそんなこんなでカトリックに改宗してカトリック信者として生活するようになったわけ。でも、ほんとにへんてこな誤解やいじめばかりつづいて、ごくわずかな神父様以外、あの人を認めてくれる人がいなかったし、あの人も自分の進路についてはさっぱりわからなかったから、長い間ずっとそのまま生きてきたの。観想的な生活は希望してたけど、自分の場がどうもわからなかったの。

そのうちにとんでもない事件に巻き込まれたり、普通あるはずの無い状況になっちゃったのよ。その辺はここでは省略するけど、ただ、最近になって、ふとしたきっかけでスターウォーズの全巻をDVDで見て、これは現実の世界そのままだって思ったのよねえ。みんなに信用されている人が実は暗黒界の人になってしまっていたり、光と闇、善と悪の戦い、すべて現実そのものなんじゃないの。まあ、これ以上は止めておくわ。

聖霊の話に戻らなくちゃね。

うちのおばはんにとっても、それは二十年も三十年もかけて少しずつわかるようになったとしか言いようがないのよ。昔々、プロテスタントの頃の先輩で今は牧師夫人としてご主人の仕事を支えている知り合いのところに遊びに行った時初めて、御霊さまという名前を聞いたの。それまで聖霊とか、御霊とか、聖書に出てきていても全然考えたことも無かったのが、その方に教えられたのよ。それで、それ以来、聖霊とか御霊のことが気になっていたの。

で、あの人、四谷の教会に行くようになって聖歌隊に入ったのよ。そこで初めて「聖霊の続唱」を歌ったわけ。聖歌隊で歌うのがいいところはね、メロディーと一緒に歌の言葉も覚えられるのよ。祈祷書を読んでも覚えきれない祈りも聖歌を覚えると祈れるようになるの。というわけで「聖霊の続唱」を覚えたおかげで、聖霊がどんな働きをしているのかがよくわかるようになったし、「風がどこから」というやっぱり、聖霊のことを歌っている聖歌があって、それも聖霊について考えさせてくれたの。

それまで神様については父なる神さまと、子なるキリスト止まりだったのが、聖霊なる神様のことがわかるようになってきて、やっと、三位一体の神ということの意味がつかめるようになってきたの。その過程はけっこう長い道のりよ。

あの人がこんなことを書いてるわよ。

―以前にもどこかで書いたことがあるのですが、その昔、聖イグナチオ教会に黙想学校というものがありまして、そこで教わったことは実は今でも非常に役に立っています。どういうことかというと、たとえば観想の祈りと一口にいっていますが、それは大きく分けるとカルメル会的な自分の心の奥深いところで神様と出会う祈りと、もうひとつはアッシジの聖フランシスコのように大自然を初めとする外界、自分の周囲の世界を通して神様と出会う祈りという二つの形があることや、三位一体の聖父と聖子、聖霊の交わりの中で、では人間はどこに位置するのかというと、これがミサの時に祈られる『キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに』と言う言葉の通り、私たち人間はキリストによって三位一体の神の交わりの中にあるのだといったことなどについてです。

また別の神父様の講座では神様と人間の関係を、海と海の水の中のスポンジにたとえて教えていただきました。海は神様、スポンジは私たち人間。海の中ではスポンジの内側にも外側にも海の水がいっぱいでスポンジを支えています。人間も自分では感じなくても実は神様の中で生きていて私たちの内側も外側も神様の力が及んでいるというわけです。

またある時は、まったく違う方向ですが、教会の真和会という定期講演会があって、そこで多磨全生園で長く看護の仕事をされた方のお話を伺う機会があり、その方は第二次世界大戦中、従軍看護婦として南方に行っていらっしゃったのだそうです。それで、朝は元気に笑っていた人が夕方はもうこの世の人ではなくなっていたりするのを目の当たりにして、死にたくない、死にたくないとそればかり思っていたある日、なぜか、どこからか、「人間は自分で生きているんじゃないんだよ」と言う声がしてハッとしたのだそうです。その時に人間は自分で生きているのではない、生かされて生きているのだと気がついてそれ以来考え方が変わり、戦争が終わって日本に戻ってからは当時は不治の病だったハンセン病療養所で働くようになったというおはなしでした。―

つまりこれなのよ。生かされて生きている自分。生かしてくださっているお方。自分はその方の中で存在し、その方に支えられているというのをあの人もある時、ハタと実感したというしかないみたいよ。それであの人も、いろいろあるけど自分で生きてるんじゃないとするとこの先もそれなりに何とかなるだろうって思ったのよ。もともと依存心とか依頼心は強い人だから、、大本の自分を生かしてくださっているお方に依存することにしたんだわよ。

話はもうちょっと続くんだけど、さすがにあたしもくたびれちゃったわよ。あの人ときたら、平気であたしをこき使うの、もうちょっと考えてもらいたいわ。とにかく今日はこの辺で終わりにしますからね。

バイバイ、またね。

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