2014年1月13日月曜日

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うちのおばはんときたらすぐに後ろ向きになる

 
こんにちは~、お久しぶりのマリーで~す。

うちのおばはんさあ、朝までは今日は新年の集いに行くって言ってたのに、妹のことを考え始めたらまた落ち込んじゃって、心が後ろ向きになっちゃったのよね。これじゃ出かける気力も何も出ないって、お出掛け中止よ。まったくしょうがないなあ、まあ実の妹だし、年も二つしかはなれていないんじゃ、そりゃがっかりしちゃうのもわかるけどさ、なんか気分転換が必要なんじゃないのかなあ。

夕べの千葉からの電話じゃ、明日には司法解剖も終わって夕方には火葬できるって話よ。ほら、次の日って友引じゃない。友引は火葬場もお休みだから明日中に火葬しちゃうのよね。でも、お墓に収めるのは別の日になりそうだからいったんお骨は弟のとこに預けるみたい。

うちのおばはんはそんなことを考えてるうちに、妹とのいろんな思い出を思い出しちゃったらしいんだわさ。ほら、誰でもそうだと思うんだけどさ、ああすればよかった、こうすればよかった、どうしてあそこであんな風にしちゃったんだろう、とかって後悔ばっかりなのよね。そんなことを言ったって終わってしまったものはもうどうにもならないのにねえ。

あの人ったらさ、考え事の始めは前向きだったのよ。こうなったらもう後は自分のこれからをちゃんと考えなくちゃいけないって思ってたはずなのに、途中で今の状況になった経緯を思い出して、そこでまた妹のことで気になっていたことも絡んで、なんかやたら後ろ向きになっちゃったんだわ。今となっては真実がどうだったかもわかりはしないのにさあ。

でもとにかく、あの人も誰かに言わないと気持ちがすっきりしないで落ち込むばかりみたいで、さっきツイッターに言いたい放題書き込んでたのね。妹に本当は何があったのかなんてわからないんだけど、言わずにいられないのよね。それもわかるなあ。ほんでもって、一応、この下にツイッターの愚痴っぽい記事もおいとくけど、こんなのは読みたい人だけ読めばいいんだと思うわ。これもあの人自身が自分の気持ちをまとめていくために必要なだけだもの。

お葬式が終わるまではやっぱり、あの人の気持ちも揺れちゃってて、何かを始めるどころじゃないんじゃないのかしら。まあ、しょうがないわよ。

● ツイッターから

そうだ、妹の後始末が終わったら去年からの懸案に戻らなくては。以前、片柳さんは管区長にとかおっしゃったけど、もうあちらの問題はすぎたからやっぱり主任司祭だろうなあ。ガラさんはぜんぜん当てにならないし、今、直接関わりがあるのは司教さまだけでは、これはやっぱり主任司祭だろう。

しかし、お金も名前も健康もない今年は65になろうというおばはんの使い途なんてあるかしら?さすが不安だ。

今週はちょっと大きい地震が心配されているし、あんまり出歩きたくないのだが、みいちゃんの葬送もあるし、嫌でもいつものように動くことになる。これもまた神様の思し召しならと思っていくしかない。生きるも死ぬも神様の思し召し次第だ。でもたくさんの不安や心配も本当。現実の人生だから。

自分一人のことなら、お金が全然なくてもそれなりに生きていくけれど、家族の葬儀とか台風や地震の被害で家族が困っているときに助けるお金がないのは本当に困る。こういうときはやっぱり誰かさん達に腹がたってくる。人間だもの。

妹がケータイを買わなければ、私に連絡をとったりしなかったら、こんなことにならなかったのではないかという疑念。だってどこかの誰かさんがそこから妹の雇い主をしらべたのは想像がつく。それであの子仕事をうしなったのだろう。

チェルノブイリの事故の後、会社の上司や同僚に裏で取材してまわっていた誰かさんたち、多分今回の妹の件にも裏で余計なことをしていた誰かさんたちがいたからだろうと思う。妹自身がたださえ厭世的になっているときに背中を押してしまったのではないのか。疑えてならない。

私の場合は手に職をもっていたというのに、どこかの誰かさんたちの裏の取材でまともに就職出来なくなって生活保護になった経緯を思い出しても、今回の妹の事件の始まりのあの子の失職、これも裏で雇い主に取材した連中がいたとしか思えない。妹は家政婦だから個人の家庭は取材されるような人は雇いたくないもの。

とにかく、背中を押されてしまったのだねえ。あの子はこの世から出ていってしまった。

残るのは悲しみと涙だけ。お馬鹿のみい、お前なぜ待ってくれなかったんだ。いくら愚痴っても虚しいけれど。

なんだか頭痛が出てきた。出かけるのは中止だ。

救い主イエスは我が友なり、YouTubeで探してみたら、ふたつあった。個人賛美とSDAの教会のだ。この歌こそ子供の頃にはじめて聞いて、教会に行ってみたいと思うようになった歌だ。臆病で自分から知らないところに行くなんてことのなかった子供だったのにだ。

この、プロテスタントの新生聖歌集の歌を思い出すと、やっと少し気持ちも落ち着いてくる。結局神様を見上げるしかないのだと思う。

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