2014年3月9日日曜日

メインブログからの転載

今日は思い立って墓参りに

 
仏教のほうでは四十九日がすぎるともはや死者はこの世と違う方向に行くらしいが、こちらに残っている身内としては、普通ではない死に方をした家族への思いは簡単には消えない。というわけで、普段殆ど墓参りなど忘れている当方もちょっと出かけてくることにした。

墓は船橋の奥、東武線の塚田という駅でおりて行傳寺という、地元の古い小さな寺からまたちょっと先に行った場所だ。母方の代々の墓があるので、父が母の死んだとき、母を生まれ育った土地に葬るためにここに墓を作った。今では父も妹も母と一緒だ。

この間、四ツ谷のサンパウロで、骨壷のことでアンケートを取っている方たちに出会った。何でも、某観想会のシスター方のお仕事に、キリスト教徒らしい骨壷の製作を考えておいでらしいのだが、ついこのあいだ妹のために墓を開け、久しぶりに父母の骨壷に対面したばかりだから、こちらも思うところがあった。

父の羽振りの良い時代に死んだ母の骨壷だけは特製の高価な青い美しい骨壷なのだ。そのあと、家が傾いてからの父自身の骨壷は妹と同じく並製の白い骨壷だ。それを見て、お母さんも自分ひとり変わった骨壷では気がひけているだろうな、などと考えたばかりだった。

お墓をあけるたびに骨壷で家の栄枯盛衰が目の当たりになるというのはどうだろうか。骨壷に等級をつけるのは嫌だなあと思ったばかりだった。シスターの作成で祈りがこもっていようと、いまいと、知らない人間にはそれより、家庭の事情を感じさせることになりそうな気がする。

まあ、墓というのは当人のためというより、残った身内の慰めの意味のほうが大きいから、いろいろな考え方もあるのだろう。

妹めは死ぬ前にちゃんと朝方の夢の中に別れを告げに出てきたけれど、今一度生きたあの子に会いたかったのに遺体確認をさせられるとはまったく、ひどいやつだ。

ちょっと出かけていって墓石に文句を言ってやろうと思う。


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