2013年11月8日金曜日

メインブログからの転載

松谷みよ子さんの『現代の民話』

 
昨日、久しぶりに聖書の集いに出かけ、今度の日曜日分の福音を読んで分かち合った。そこでサドカイ派の人々とイエス様の死後の復活論争の話が出た。当時のサドカイ派の人々の考え方は、人間は生きている間だけで、死んでしまえば後はないというような考え方だったようだ。しかし、イエス様はそうではないことを教えようとされた。

これはいつの時代の何処の国の人にとっても頭を悩ませる問題だ。この問題を何とか説明しようとして多くの人がいろいろ考え、沢山の説を出してきた。でも、こればかりは、向こうに行ってしまうと大体それ以後は音信不通になるから誰もよくわからないのが本当だ。

誰も見たことも無いものを、人はどうして信じることができるのか? 最近ある出来事があって、かかわった方々は皆、それぞれにさまざまなことを感じ、考えさせられることになった。そのことで思い出したのが松谷みよ子さんの、現代民話考(全12巻)や、あの世からのことづて、現代の民話などの調査研究を集めた大量の本のことだった。

実を言うと自分の父親の死に際の奇妙な偶然以来、人が死ぬときは変わったことも起こったりするらしいと思っていたので、、今回の出来事もそれほど驚きはしなかった。それで思い出したのが若いころ読んだ松谷みよ子さんの本だ。あれはそういう出来事の話の集大成ではなかったか。

これは思うに、聖書の昔から、死後の世界はあるとか無いとかの論争と一緒に、時々信じられないような奇妙な出来事というのが本当に起こって、それに出会った人達は自分の経験でやっぱり、あちらの世界はあるらしいぞと、子や孫たち、周りの人達に伝え、伝えして死後の生を信じる心も伝えられてきたのではなかろうか。

いくら研究しても、人間には限界があるので、誰一人この世にいるうちはわかりきることなどできないのだが、信頼し、敬愛していた人達がそれこそこの世に残る人達へのことづてを置いていったかのような奇妙な出来事、たぶん、それを信じてこの世での一生を一生懸命生きることのほうが、あの世など無しと決め付けて生きるより、よりよく人生を味わえるような気がしている。愛する人達と共有してきた時間、彼らから受け継いできたこと、そういうものは、そういうものこそが信仰を支える土台なのではないかと思う。



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