カボチャひとつとっても
共通のイメージ
世の中には輸入物の行事で、ある程度の知識がないと、意味のわからない象徴、シンボルというものがあるわけで、ハロウィンの場合は、数年前のアメリカで仮装パーティーに出かけた日本人の男の子が不審者と間違われて銃で撃ち殺されてしまった悲しい事件あたりから、アメリカの銃社会の現実などと一緒にハロウィンという行事も知られるようになってきたような記憶がある。
でもそのまえから、ブラッドベリに親しんでいた方なら、実態を見たことがなくてもハロウィンあるいはハロウィーンという言葉や内容も知っていたと思う。ただ、今のようにネットで調べればすぐ写真も出てくる時代になる前は、カボチャといえば日本の八百屋さんに並んでいる小さい硬いカボチャしか知らないし、カボチャでランタンを作るといっても、あの硬いカボチャのイメージでは、これでどうやって作るのだとおもうばかりだったわけだが。
つまり、カボチャといってもアメリカと日本ではすぐに同じものを思い浮かべていたわけではなかったのだ。おなじことはキリスト教の中のシンボルにも言える。こひつじという言葉で日本人は何を連想するのだろうか、柔らかいウールくらいではないか。後、高級レストランの食材や料理くらいか。
だから、ミサにあずかって、神の子羊と唱えながらちゃんとこれが人類の現在の贖いのために身代わりになって死なれたキリストイエスのことだとわかって唱える人って果たしてどのくらいいるのだろうかと時々考えてしまう。信者だからわかっているはずとばかりはいえないような場面にもよく出くわす。
洗礼を受けた信者で、おんからだのはり付けられた十字架は気味が悪いから嫌いだと公言する人ってほんとにキリスト教の信者なのかなあ。まあ、あまり美的でない十字架は確かに好ましいと思えないけれど、シンボルというのは意味があるものなので、その意味が大事なのだが、日本人の信者の場合どのくらいちゃんとわかっているのだろうか。
そこがわかっていないから洗礼を受けても何年かすると教会から卒業してしまう人が減らないのではないのか。カリタスも大事だけど、肝心の神様に対する愛、イエス様への愛は、自分とこのお方の関係、その意味がわかっていないと消えてしまうのだと思う。
カボチャのイメージからはなしがずれてしまったけれど、共通のイメージというのはそのグループを強める力でもあるし、本当は大きな意味があるのをちょこっとでも思い出してみてほしい。
2013.11.1
本日は簡単なはなし
それは良いとして、今日は昼ミサに四ッ谷に行くと駅前に機動隊の車輌?や警官が何人か詰めていたので、誰が来ているのだろうと思っていたのが、夜のニュースでロシアの高官だったことがわかった。最近ロシアの話題多いな。当方などはロシアときいてもロシア料理からロシアの宮廷文化のことを教えられ、ソ連時代しかしらなかったロシアという国の歴史に今ごろ気がついたくらいの知識だ。ロシアも中国も革命時代がおかしかっただけで、今の状況というのは元々の姿に戻ろうとしているだけなのかもしれない。両方とも巨大な国なのが何か恐ろしいけれど。
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