2013年9月18日水曜日

メインブログからの転載

杉並区は広い

 
生まれ育った千葉県市川市で過ごした年月よりも、東京都民、杉並区民になってからの年月のほうが長くなってしまった。まさかこんなに長く杉並区民でいるとは夢にも思わなかった。しかも中央線沿線だ。

子供の頃、若宮から外部に出るには歩くか京成バスで中山に出るしかなかったのが、私が会社に勤めるようになった頃は西船橋の駅ができて、今のメトロが停まるようになり、会社のあった神保町には竹橋から歩いたりしたのは覚えている。しかし、だいぶ忘れてしまって今では中央線沿線のほうがよくわかる。いつのまにかそれだけの年月が経ってしまった。

大体、市川市若宮からの中野というと地の果てのような気がしていたのが、いまや、中野の先の住人だ。この杉並区は中央線沿線はそれほどの距離でもないが、南北に広い地域だ。そしてこの土地にすぐになれることができたのはここはほんの数十年前までは市川市の昔の我が家の周辺と同じく畑や緑の多い土地だったからなのだ。

数年前からは青梅街道に近い地域の住人だが、高円寺でも阿佐ヶ谷でもここでも、若宮にいた頃と同じく、ご近所には小学校があって、まるで違う土地にいるような気がしない。これは杉並区の歴史が、江戸時代のこのあたりが農村地帯だったことと関係しているようだ。市川市若宮も、父方の本家の中山も鎌倉時代からの古い土地でほとんどが農村だったから、とてもよく似たところがあるのだ。

それでもこちらはさすがに東京だと感じるのは街の賑わい、若者の風俗、映画館や大きな公園、大学や病院を見るときだろうか。大体子供の頃は、競馬のある土日以外は自動車というものを見ることもない田舎だったから、青梅街道を見ると不思議な気がするくらいだ。はるか昔はこの青梅街道も若宮の木下街道同様、牛や馬がのどかに歩いていたのだ。関東大震災がこの杉並区の発展に大きく寄与したのだという。

関東大震災で家を失った人々が都心から落ち延びてきて住み着いて街が出来上がったのがこのあたりの始まりだそうだ。時は移り、時代が変わって、今再び次の地震が心配されているが、どんな出来事でもよい面と悪い面と両面あるわけで、地震や噴火、自然災害は恐ろしいが反面、新しいものの始まりにもなるのだろう。

備えながら、しかし、恐れているだけでは何も始まらないのだ。

   

人と人(コミュニケーションの問題)

 
今日はなかなか面白いことがあった。

憂鬱な気分で東京衛生病院に出かけると、今日は運よく以前からのおなじみの先生に当たって、スムーズに話が進み、やっぱり前から知っている先生の言うことだとこちらもすぐに納得して、言われたようにすることにして帰ってきた。

家に戻ってから福祉事務所に電話するといつもの担当者がいなくて別の方と話したわけだが、その方が肯定的な対応をしてくださり、足腰の不調で3階から粗大ごみが下ろせなくなっている件の解決方法もちゃんと提示してくださった。

今回はお医者さんもちゃんとこちらが納得する説明をしてくださり、福祉事務所の応対者もこちらの話もちゃんと聞いてどうするのがよいのか答えてくださったので、こちらも納得して受け入れることができたわけだ。

これって信頼感のあるなしが人間関係では大きな要素になるということなのかもしれない。

こちらの話もちゃんと聞いてそれに対するちゃんとした答えを返す、これはコミュニケーションの基本だが、案外とこの基本的なコミュニケーションというのが無視されているものなのだ。言いたくはないけれどカトリック教会もそうだろう。だからいつまでたってもどうにもならない。
 

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