2013年8月1日木曜日

メインブログからの転載

八月

日本の八月はやはりなんといってもお盆の季節だろう。都会では最近は新暦にあわせて七月にお盆を済ませたりもするが、多くは今も旧暦で、郷里に帰って親類縁者とともにこの時期を過ごす。
 
この時期は今ここに生きている自分と遥か遠い昔の先祖たちとのつながりを思い起こす時間だろう。ふだんは何も考えずうわべの時間を生きているけれど、人生はやはりそれだけではない。一人暮らしで帰る故郷もない人だとしても、思い出を取り戻す時間かもしれない。

思い出とか、心の世界というのは思っているより重要なものなのだ。心が充足していれば、一人暮らしだろうと、貧しい生活だろうと、将来が見通せない状況だろうと、実はなんとかなるのだ。

では心の充足はどこから来るのかといえば、当方は一応カトリック信者だから「祈り」の効用を信じている。ただ、その「祈り」というのは、あれがほしい、これがほしい、こうなればよいとかいうような求めるだけのもののことではない。

 
「祈り」というのは神様とお話することだそうだ。人間と人間の間での話し合いでも、どちらか一方が言いたいことを言うだけで、相手の言うことを聞こうとしないとしたら、それこそ話にならないわけだ。話はこちらが話すだけではなくて相手の言う言葉も聞かなくてはどうにもならない。

姿もなく声もなく気配もない神様の語る沈黙の声をどうやって聞き取るのかといえば、これはもう自分の心を耕すしかなかろう。昔々、ある方は内面の充実という言葉をおっしゃっていた。そう、必要なのは心の豊かさというものなのかもしれない。

こういったものがないまま、外に向かっての働きかけ、宣教だ、伝道だといっても中身がなければ何も生まれてはこないのだ。

今、日本ではお盆の近づいてくる時期、今、ここにいる自分とおじいさん、おばあさんとのつながりでもいいし、さらにはもっと遠いご先祖様でもいい、とにかく、今、自分がここに生きて存在していることの不思議を見直すあたりからはじめたらどうだろうか。

この世のどこにもいなかった自分が今生きてここにいる不思議、そんなことに思いを向けてみるにはお盆はよいときかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿