2014年4月2日水曜日

plalaの押入れからの転載

こんなこと

 
どうも見る気になれなかったNHKの新しい朝の連続ドラマ、花子とアン、ついチャンネルを合わせてしまった。どこがいやだったかといえば、絵が汚い。時代背景、実際の状況を考えればこうなるのは当たり前だが、朝から見たいような絵ではないと思っていた。

今 日はそれでも汚れた顔の子供のけなげな姿を見ていると、年老いた継母のことを思い出してしまった。今、88歳のこの人が新潟と長野の境の山奥の村から東京 に出てきたころの話を思い出したのだ。あの人も、あの人のなくなった弟も山村で生まれ育って跡継ぎの弟以外の姉妹はみんな外に出て働くしかなかった時代 に、あの人は若くして東京に出てきてそれでもよいお店で働くことができたから、ずっと新潟の家族のために支援して、結局結婚が遅くなって、うちの父に出 会って、できの悪い子供の私たちとの縁ができたわけだ。

まったく申し訳ない話だ。思い通りにはならない人生、テレビの連続ドラマになるの は成功した方の物語だが、世の中の大半は平々凡々の人生だったり、下積みのままの一生だったり、決して思い描いていたようにはいっていないはずだ。それに はいったいどういう意味があるのだろう。

どうもやっぱり、それを考えるには人間を超えた大きな存在を思わないと解決しない事柄だと思う。 成功した人生が実は他の人を踏みにじった成果だったり、失敗した人生が実は他の視点から見ればその人の成長のために必要なことだったのかもしれない、この 世だけで見てはわからない部分があるのだ。それを信じることができるかどうかがまたひとつの試しなのだろう。

最終的にはこれは神仏の存在を信じられるかどうかにかかってくる問題だろう。信じていても慢心して失敗する人生もある。人間の一生は死ぬまで一種のテスト期間のようなもののような気がするのだ。

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