2014年4月27日日曜日

plalaブログからの転載

列聖式の中継を見た

 
昔、テレビで初めて生中継を見たときはびっくりしたけれど、インターネット時代はもっとすごいことになっている。ローマで行われている列聖式をネット中継ですぐに見られるなんて昔は想像もしなかったことだけど、今は現実だ。なんてたいした時代だろう。

ヨハネパウロ2世の来日の時は聖歌隊のメンバーにまじって会場にいたのだった。その方が今日は列聖だ。そしてヨハネス23世教皇様のころは、カトリック教会の外から見ても、何か大きく変わっていくのがわかった時代だった。あれからこちらも教会もいろいろあったわけだが、今日の列聖式を見ていて、考えさせられた。

市川市や船橋市で鎌倉以来だとか、室町時代だとか言っても、あちらはなんといっても二千年以上続いてきた歴史があるぞ。田舎の人間だからかもしれないが、昔からの歴史のあるものには文句なく頭を下げてしまう。信頼度が違う。いろいろ問題はあっても二千年の歴史はそう簡単に揺るぐようなものではないと思うのだ。

今、このパソコンをつないでいるジェイコムの調子がおかしくなっていて、テレビがつかない。パソコンもちょっと切らないと判断がつかないので途中だがここで終わる。ごめんなさい。

追加)
 ジェイコム自体ではなくてテレビの問題でした。でももう今日はこれでやめておきます。




   

事実だから取り下げはしないけど蓋をしておこう

 


   

ユング心理学の共時性

 

思えばもうずいぶん昔のことになってしまったものだ。30数年、いや40年近い昔といえば生まれたばかりの赤ちゃんがとっくに成人して、社会人になり結婚して子供が生まれてその子もすっかり大きくなっているほどの年月だ。覚えている人がほとんどいなくても不思議はない。でも40年近い昔、カトリック市川教会の聖堂の片隅に小さなケースに入ったファティマのマリア様のご像があったのは本当だ。ただ、個人の私物だったのだそうで今は引き取られてしまったらしい。

でも、そのご像がすべての始まりだった。けれども日本の教会は全くなにも知らない。亡くなった誰かさんばかりを信用して言いなりになっていたのだから当然だ。今更か。しかし、あの頃、本当に普通ある筈のない話がいくつも続いていたのだ。まさにユング心理学でいう共時性そのままだったのだ。どうしてそうなったのかなどこちらもわかるわけがないはなしだ。とにかく大きな大きな手が核戦争を止めたのだとしか言いようがない。いや、言っても仕方がない。ただ、それからマスコミや政財界で私の情報を欲しがる連中がやたらにこちらのまわりに出没して、それで結局こちらはまともに就職できなくなり、ある方が手をまわして生活保護を受けて最低限の暮らしはできるようにしてくださったのだ。

当時の関係者が次第に少なくなって今となってはもはや忘却の彼方に消えていくだけのようだ。ただ、恐らく状況をみていると日本の教会がなにも知らなくてもローマはある程度知っているような感じだし、これ以上こちらは余計なことは言わないで、自分の仕事に専念することにする。
これを一言でまとめる言葉は「事実は小説より奇なり」これに尽きよう。おしまい。


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