2014年4月13日日曜日

plalaブログからの転載

マリア様

 
カトリック教会に行くと、必ずさまざまなお姿のマリア様のご像やご絵に出会うはずだ。ついでに言うと、ご像とかご絵、おメダイとか日本のカトリック教会に は独特の用語もあって、初めて聞いたときは何のことかよくわからなかったのを思い出す。聖像、聖画、メダイヨンなどを丁寧に呼ぼうとしてこんな言葉が生ま れたのだろう。

それはとにかく、マリア様だが、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を日本人に伝えた時以来、マリア様のお名前やお姿のイ メージはキリスト教禁制の時代にもひそかに伝えられ続けて、現代でも信者でもなんでもない方々でもマリア様といえばたいていすぐに何らかのイメージがわい てくるわけだ。こういっている私自身、子供のころからさまざまな形でキリスト教のことを教わり、キリスト教とマリア様は切っても切れないイメージだったの が、教会に行ってみようと思ったころ、一番近かったカトリック市川教会が当時はどうもいくら電話しても誰も出ないような状態だったので、最初に行ったのは プロテスタントの教会になってしまった。

でもそこで、よい方々に出会いキリスト教の基本的なところはすべてそこで教わったのだった。その 教会に当時高校の先生だった大先輩の信者の方がいて、あるとき何気なくその方に、聖書の中で一番すばらしい女性は誰か質問したところ、即『マリアよ』とい う答えが返ってきて、その教会は堅く聖書の信仰に立った教会で、マリア様のことなど一切出てこない教会だったので、内心びっくりしたことを覚えている。

そ れ以来、どうして先輩はマリアが一番すばらしいといったのかと一生懸命ずっと考えていたところ、あるときはたとマリア様の『私は主のはしためです。仰せの ようになりますように』というあの言葉に行き着いて、急にマリア様の生き方の姿勢が見え始めて、先輩の言いたかったことの意味もわかり、それから少しずつ カトリック教会に心が傾き、いろいろあって結局カトリックに改宗したのだった。先輩のほうは今はプロテスタントの女性伝道者にして牧師夫人として浦和で活 躍されておいでだ。

カトリックになってもう何十年も経ち、ずいぶんいろいろ、ごたごたも起こっているが、プロテスタントのほうの友人知人 の信仰の模範を見習って何とかこちらで持ちこたえてきたといったらまずいだろうか。でも本当なのだ。こちらではなぜか信じられないようなごたごたばかり起 こってくるのだが、私はいつか向こうで友人知人たちとまた一緒になりたいと心から思っているので、それまでこの世ではこちらで理解されなくてもがんばるつ もりなのだ。これは本音だが、ではなぜプロテスタントに戻らないかというと、信仰の内容自体はこちらのほうが正しいように思うからだ。

マリアさまもご聖体も信じているからだ。人間的な問題だらけでもローマのパパ様の指導を信じるからだ。その全体を導いている聖霊を信じているからだ。

と いうわけで、マリア様に戻るが、信者だったらたいてい誰でもマリア様のお姿に自分なりのイメージを持っているのだと思う。私の場合、どうも東方教会のイコ ンのマリア様のお姿がいちばんピンとくる。甘ったるいマリアさまなどまっぴらだ。しっかりと威厳と気品とやさしさの調和したお姿のマリア様のイメージをさ がすと、ウラジミールの聖母とか、レデンプトール会のあの、絶えざる御助けの聖母にたどり着く。他の人はまたそれぞれだろうが、私はこのお姿が特に好き だ。他にも自分のミニ祭壇にはあれこれ飾ってあるくらいだから絶対などと生意気なことは言わない。カルメル山の聖母もファティマの聖母もいっしょだ。大事 なのはマリア様のあのお言葉なのだと思う。人間が見習わなくてはいけないのはあれしかないのだと思う。『われは主のはしためなり、仰せのごとくわれになれ かし』あの姿勢だ。


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