自分のためにもう一度思い出して書いておく
つい最近まではある方が長い年月、ずっとこちらの足をひっぱりつづけ、悪い噂を流し、教会関係でもほかの方たちがこちらを相手にしなくなるように工作ばかりしていたので、こちらとしてはひたすら我慢するしかなかったのだが、あちらが亡くなり、こちらも年を取ってきて昔のように自分だけで何とかしていくのが次第に難しくなってきたから、今回はついに生活相談を頼ったわけだ。
今、とにかくなんとかしなくてはならないのは食べていくお金がまるで足りなくなっていることだから、相談して現金以外の方法で助けていただくことになった。暖かい季節になって光熱費が一挙に減れば状況は解決するので一時的な措置だ。それだけでも助けがあればこちらはお金にはならなくても、原稿を書くことに専念できる。他に方法がない以上仕方がない。
でもどうしてこうなったのか、大司教も管区長も全然真相を知らずにいた、いや、あいかわらずよくわかっていないのかも、それはどういうことなのだ?マスコミや政治家のほうが簡単に昔阿佐ヶ谷に住んでいたころの事件、父ブッシュの国際電話の記録も調べられて、教会関係者は亡くなった人物の言いなりで何も調べないとは。なんだか変じゃないか。
しかし、仕方がないとなれば、自分のための記録だけでも残していくだけだ。こちらは創作の物語などではないただの事実だから返って面倒なわけだ。まあ、少しずつ、折々に書いておくか。普通ありそうにもないようなはなしばかりというのが一番問題ではあるのだが、事実は事実だ。
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