2014年4月11日金曜日

plalaブログからの転載

井の頭公園を歩きながら考えた

 
こんばんは~、マリーで~す。

今日はうちのおばはん、教会の帰りに井の頭公園をぐるぐる歩き回って、残りの桜や、池のボートを眺めてしみ じみと春だなあって思ったみたいよ。あの人もずっと、悲しいことをあんまり考えないように、思い出さないように、なるべく忙しく動き回ったりしてたけど、 なんか風邪とアレルギーでなかなか咳は止まらないし、暖かくなってきても足腰はあんまり調子よくない市で、いやでも少しおとなしくするしかないもんだか ら、やっぱり妹の死のことに考えがいっちゃうし、悲しみがわきあがってきて止まらないのよね。

こればっかりはさあ、他のひとたちにはどう しても通り一遍にしか伝わらない部分だし、ちっちゃいころの妹のことをよくおぼえているのはもう自分しかいないのも悲しいのよね。あの子、ちっちゃいとき から家の前のどぶに落ちて流されかけたり、汲み取り式だったトイレに落ちちゃったりよく水難にあってたけど、結局最後も水で死んでしまったって嘆いてる の。

もうあのころの家も跡形もないし、お父さんもお母さんもとっくにいないし、貝塚のお墓に行っても墓石に日が当たって風が吹いてるだけ なのよね。うちのおばはんも変なところで頑張り屋だけど、さすがにこの状況は考えると泣けちゃうみたいよ。でもさあ、泣くのを我慢してるともっとだめなん だと思うのよね。あの人、一度思いっきり泣かないと先に進めないんだと思うのよ。

さっきあの人、ツイッターを見てたら誰かが瀬戸内寂聴さんのことばを載せてたの。こんな言葉よ、『世の中の不平等さや理不尽さを、しっかりと子供たちに伝えることが大切です。  瀬戸内寂聴(天台宗の尼僧)』

あの人、カトリック信者だけど、人間の深みについては日本人だからか仏教の感覚のほうがぴんとくるって感 じるみたいよ。日本的な浅いキリスト教じゃどうしようもない問題もあるじゃないの。ただ簡単に神は愛だって言ってるだけじゃなくて、現実の人間社会の諸問 題の背後の深みを語れないではどうしてキリスト教が日本人の心にはいってくるのよねえ。きれいごとのキリスト教じゃ救われないと思っちゃうけど、こんなこ と言ったら怒られちゃうかな。

うちのおばはんの死んだお父さんは、お坊さんの子だったそうだけどこういう寂聴さんの言葉みたいなことはぜ んぜん子供に教えなかったのよ。多分それであの人、やたらに人を信じすぎて失敗したりしてるのかもしれないわ。現実の人間の社会はどうもあの人が教わって きたのとは違うんだわさ。もうあの年じゃ軌道修正は難しいから死ぬまでこんなもので終わりそうだけど、それでもこの言葉も改めて心に留めながらいくしかな いのよね。お人よしの面と、多少考える面と両方ないと、これから書きたい新しい物語は生まれないと思うのよねえ。

まあ、今日はこんなところまででやめとくわね。また続きはあの人の心の中でそのうちにまとまっていくんじゃないかしら。こればっかりはあたしだって手伝えない、うちのおばはん自身の仕事なんだわさ。てなことで今日はおしまい。ほんじゃまたね。




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