2013年7月9日火曜日

『リーメンシュナイダー』

おととい、昨日、今日と毎晩あまりにも暑くて、睡眠不足気味のせいか朝起きると目がまわるありさま。これはまずいと思い、今日は出かけずに部屋を涼しくして休んでいた。おかげで思い出したのがリーメンシュナイダーのこと。少し前にも新潟日報のアメカゴにもちょこっと書いたことことがあった。こんなはなしだ。


最近は多くの、海外の有名な絵画や彫刻、美術品の数々が日本にやってきて、美術館での展示がされ、期間中ならちょっと足を伸ばせば日本にいながらにしてみることができる。

しかし、さすがに現地に行かないと実物を見ることのできないものもある。

ドイツにリーメンシュナイダーという、有名な彫刻家というか、職人が作ったたくさんの教会の祭壇を飾る彫刻、聖人像はさすがに実物はドイツに行くしかなさそうだ。

農民戦争に巻き込まれ、晩年は腕を傷つけられ(物理的に)彫刻を彫る仕事ができなくなるようなひどい目にあわされたリーメンシュナイダー。でもその作品の美しさ、格調の高さは今も多くの人の心をひきつけている


リーメンシュナイダーの事を初めて知ったのは40年近い昔、今は取り壊された昔の聖三木図書館に通っていたころだ。「神秘の芸術 リーメンシュナイダーの世界 新潮選書 1976」 という本に出会った。その中のリーメンシュナイダーの作品の彫刻像の写真を見て、その美しさ、すばらしさに驚き、忘れられなくなった。

その写真の中のひとつにローゼンクランツのマリア像の写真があった。美しさと威厳を感じさせる薔薇の花飾りに囲まれた聖母子像だ。その写真を何度も見ているうちに元はプロテスタントでカトリックに改宗した私にとって今一よくわからなかったロザリオの祈りの意味がなんとはなしにわかりはじめたと言ったら大げさだろうか。ロザリオの玉の一つ一つがマリア様を取り囲む花飾りの薔薇の花。なんと美しい祈りだろうと思ったわけなのだ。

それでロザリオにこだわって、故障している指にも合うロザリオの指輪もさがしていたのがはじめに書いたブログの話の裏事情ということになる。今日の話、以上だ。



『指輪のロザリオ』

両手の指が、指の使いすぎで関節に異常が出てから、指輪というものにほとんど縁がなくなってしまった。指輪タイプのロザリオも、以前のサイズでは長時間、指に嵌めていると、指の傷んだ関節が腫れて痛むからとても嵌めていられない。仕方なく少し大き目のものも買ってみたが、これはなんと落としやすくて安心して使えないことがわかった。

それでもあきらめきれずに、これはというものを見つけると買ってみては、使えずにしまっておいて指の具合の良いときだけたまに使うことの繰り返しだった。

お金の無駄遣いといわれても仕方がないが、他には何のアクセサリー類にもそれほどの興味がなくても、ロザリオの指輪やブレスレットだけはなんとなく、自分のアイデンティティーの証明のような気がして、それくらいは自分だって持っていたいなあと思うのが女心というものだろう。指の関節症で始終身につけていられないとしてもだ。

しかし、以前使っていた細身の邪魔にならないデザインのものがここ数年品切れで全然出回っていなかったから、指が痛くならないものを探して韓国製の車輪型のぐるぐる回るものと、イタリア製のうすっぺらでお値段もごく安い、鋳型に傷があったらしくロザリオとしても傷物のお粗末なものをとっかえひっかえ使っていた。

そしてつい先日、以前使っていた使いやすい、指に邪魔にならない細身のものが再び製造販売されているのを発見。こういうものは即買わないと店頭から消えてしまうのも経験していたから、その場で購入。

なぜそんなお馬鹿な女心の無駄遣いの話をここに書いているのかといえば、実は自分のやりたいこととか、長年の希望にたいしても同じように、どうしてもあれでなければいやだ、似ていてもこれではだめだという心の選択基準があるのを感じるからだ。

現実の可能性は可能性だが、それでも違いすぎるものにはついていけない。自分の心が納得しないものは受け入れられない気がするのだ。こういうのってただのわがままなのだろうか? 探し求めるものが見つかるまで探しつづけてしまいそうな気がする。

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